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新着情報


都市構想にもテロがある  2015/11/19
マイナンバーには説明がいる  2015/11/19
揚州市洗いざらい(終わり)  2015/11/18
揚州市洗いざらい(終わり)  2015/11/16
揚州市洗いざらい(11)  2015/11/07
揚州市洗いざらい(10)  2015/11/04
揚州市洗いざらい(9)  2015/11/04
揚州市洗いざらい(8)  2015/11/02
揚州市洗いざらい(6)  2015/10/30
揚州市洗いざらい(7)  2015/10/29


都市構想にもテロがある
1都市構想にもテロがある。徳間和男が12月はじめから執筆。自治体の政策の中で、深く考えなければならない。

1)私はこの問題について「厚木市の将来として考える」。

2)50年の問題。10年〜20年の問題。厚木市の力を数字化す る。

3)厚木の都市構想の将来の不安に不可能なものはないか。

4)行政の限界と市政への期待。

5)大学の問題点大学卒業生はどうなる。
Date: 2015/11/19


マイナンバーには説明がいる
待ちに待ったマイナンバーが郵便物と一緒においてゆかれた。前宣伝で受けていた説明とは全く違う。印鑑も不要なら、本人の確認もない。ただ5〜6通の郵便物の束のなかには入っていただけのことだ。受け取ったこちらには関心がある。開けてみて差出人を確認してみた。なんと国税庁と書いてあるある。所得の掌握のため以外には必要性はないらしい。さて、徳間和男個人のマイナンバーハ到着していない。まさか国税庁から来るのではあるまい。小さな疑問がますます疑問に変って役所のいつもの説目不足。厚木市の担当課長にも電話してみた「マイナンバー」の市民が使えるメリットはと聞くと「税金の掌握のためだからそれ以外に市民のメリットは全くありません。」と市民のメリットは微々と小さいことだけは判ったった。
Date: 2015/11/19


揚州市洗いざらい(終わり)
     揚州市洗いざらい(終り)
市民訪中団が計画され、昭和55年5月の厚木市から初めての「厚木市議会等友好訪中団」以降、昭和55年10月には第1次厚木市民訪中団(団長 足立原茂徳厚木市長・23人)が、翌年昭和56年10月には第二次厚木市民訪中団(27人・団長 足立原茂徳市長)が訪問団を派遣した。さらに昭和57年10月には第3次厚木市民訪中団(28人・団長足立原茂徳市長)が派遣されて以後、揚州市との新しい関係が見えてきたように思えた。昭和57年5月私は四竈秀郎さんを誘って揚州市の訪問をして、人民政府外事弁公室の姚 偉鼎主任に友好都市成立の可能性を打診した。姚主任は私たちの想像していた以上の新しい話題を提供してくれた。北京政府から「揚州市の判断で、厚木市を訪問して揚州市独自の考え方を江蘇省(南京)に意見を示すように動いてもいい」という指示がすでに来ていると言うのである。四竈さんと喜びに慕った強烈な思い出である。しかし、友好締結が決まったとは言えない、それらしい動きがあると言う話しに過ぎなかった。それにしても、随分北京、南京、揚州と数えきれないほど通い詰めた結果のように思えて「次の準備に入ることになるのかもしれない」とそれとなく喜びが胸に迫っていた。さて本当の喜びの日はしばらく過ぎてから来た。黄 書祥市長(当時)から、足立原茂徳市長への電話であった。「わが揚州市は日本国厚木市と永遠の友好関係を結ぶことを希望する」というものだったそうだ。1984年10月22日厚木市文化会館で盛大な厚木市揚州市友好締結式典が行われた。この準備には民間人の四竈さんをはじめ、大勢の市職員も活発に動いた。あれから30年を超える月日が過ぎて、足立原茂徳市長も四竈秀郎さんも故人となってしまった。もとはと言えば、私の思い付きから始めた中国との友好都市締結という大きな仕事はこうして6年間の年月を経て、何とも言えぬ大事業に完成いたttらのである。いま、ゆっくりと小春日和の中で、疲れきって過ごした苦しかった日々と、あかるい希望が必ずかなうと言う喜びの日を待ち望んで生き生きしていたあの頃を思い起こしている。一つの仕事が出来た喜びであった。30年以上の年月はすでに過去のものとなっているのだが・・・・・・。

Date: 2015/11/18


揚州市洗いざらい(終わり)
     揚州市洗いざらい(終り)
市民訪中団が計画され、昭和55年5月の厚木市から初めての「厚木市議会等友好訪中団」以降、昭和55年10月には第1次厚木市民訪中団(団長 足立原茂徳厚木市長・23人)が、翌年昭和56年10月には第二次厚木市民訪中団(27人・団長 足立原茂徳市長)が訪問団を派遣した。さらに昭和57年10月には第3次厚木市民訪中団(28人・団長足立原茂徳市長)が派遣されて以後、揚州市との新しい関係が見えてきたように思えた。昭和57年5月私は四竈秀郎さんを誘って揚州市の訪問をして、人民政府外事弁公室の姚 偉鼎主任に友好都市成立の可能性を打診した。姚主任は私たちの想像していた以上の新しい話題を提供してくれた。北京政府から「揚州市の判断で、厚木市を訪問して揚州市独自の考え方を江蘇省(南京)に意見を示すように動いてもいい」という指示がすでに来ていると言うのである。四竈さんと喜びに慕った強烈な思い出である。しかし、友好締結が決まったとは言えない、それらしい動きがあると言う話しに過ぎなかった。それにしても、随分北京、南京、揚州と数えきれないほど通い詰めた結果のように思えて「次の準備に入ることになるのかもしれない」とそれとなく喜びが胸に迫っていた。さて本当の喜びの日はしばらく過ぎてから来た。黄 書祥市長(当時)から、足立原茂徳市長への電話であった。「わが揚州市は日本国厚木市と永遠の友好関係を結ぶことを希望する」というものだったそうだ。1984年10月22日厚木市文化会館で盛大な厚木市揚州市友好締結式典が行われた。この準備には民間人の四竈さんをはじめ、大勢の市職員も活発に動いた。あれから30年を超える月日が過ぎて、足立原茂徳市長も四竈秀郎さんも故人となってしまった。私の思い付きから始めた中国との友好都市という大きな仕事はこうして6年間の年月を経て、何とも言えぬ大事業が完成したのだ。いま、ゆっくりと小春日和の中で、疲れきって過ごした苦しかった日々と、あかるい希望が必ずかなうと言う喜びの日を待あの頃を思い起こしている。一つの仕事が出来た喜びであった。30年以上の年月はすでに過去のものとなっているのだが・・・・・・。

Date: 2015/11/16


揚州市洗いざらい(11)
     揚州市洗いざらい(11)
顧 燕さんが、ふと「最近唐津市と友好関係を結ぼうという話題がある」と言った。唐津市は特別な事情(歴史)があるというのだ。都市名が示すように「唐の港」と書き、鑑真和上が753年、日本渡航を試みた時、5回難波し、6回目に日本への上陸に成功したのが唐津だったことからこの地名がついたと言われている。「厚木とは違う。厚木市との関係は今回、議員団の協力があって、揚州市を訪問中であるが、昨日までは私の関係(私の中国に対する感情、河野訪中団で揚州市を訪問したことがあると言うこと。それ以上の厚木市と揚州市の関係は全くない。中国に熱い関心を持つ私一人が、足立原市長に申し出てこの町と友好の絆を作ろうとしていることこそがむしろ不自然なのかもしれない。厚木市民の一人が河野訪中団で「揚州市」を訪問し、厚木市初の訪中団が今来ているという空々しい関係しかないのだから・・・・。唐津の歴史とは大きな違いである。)だけしかない。私が足立原市長の了解を得て、自分の好きな揚州に来ているだけなのだとは思いたくはない。そうは言っても顧 燕さんの一言には「厚木はいくら努力しても2番手です。」という意味が込められているように思えてこの先を案じた。

厚木市議会等訪中団が終わって厚木市に帰った。むなしい感覚だけを残して・・・・・。しかし「やることがある」という燃えるものが胸に残って燃え盛ろうともしていた。足立原市長との帰国後の打ち合わせでは「揚州市でもよい」という許可があった。足立原市長にも「私案」はあったようだが・・・・。後日打ち明けてくれて、観光地の静かな所・やっぱり鑑真和上のゆかりの揚州市は外せないという認識では私とは一致したので、以後積極的に友好都市締結に向かって活動しようということになった。揚州市へ市長自らが訪問することや市民が大勢訪問する計画をつくった。
Date: 2015/11/07


揚州市洗いざらい(10)
     揚州市洗いざらい(10)
揚州市1日目は遅い夕食。常温のビール。雑談。ビ―ルが冷えていないという不満。などなどで終わろうとしていたが、私には「揚州市に、友好都市締結の要請をしなくてはならない」「これで眠るわけにはゆかない」と気が張っていた。顧 燕さんにもう一度会って大事な「要人との面会」の申し入れを催促しなければならない。夕食が終わると玄関まで追いかけて顧 燕さんに「要人との面会時間は明日の朝までに決めてください・・・」と念押しをして、大事に持っていた「親書」渡して「明後日は帰るので明日中に時間を取って欲しい」と強く要請した。二日目は大明寺・痩西湖の観光をして昼食。2時間の昼休みをとりホテルを出発。要人との面会の知らせはまだない。揚州滞在は半日しかない。観光中のバスの中で、たった一つの連絡窓口の顧 燕さんに「面会の時間の連絡はまだ決まらないか」との催促をしたが無駄だった。市内の見学を終えてホテルに帰って、シャワーを浴びて部屋にいると内線電話だ。「団長さん、今日の夜は卓 越副市長の主催する夕食会がありますから6時30分に遅れないようにホテルのレストランに来てください。」嬉しい知らせだった。
そして、卓 越副市長の主催する宴会は始まった。「予めご意見のあった友好都市の事については時間のかかる問題です。中国では重要なことは北京政府の許可が必要です。ですからその件は今日話題にすることは控えます。しかし、日本国の厚木市から、わが揚州市に友好関係を結びたいと言う希望を伝えるために、わざわざ来ていただいたことには揚州市人民は光栄に思います。」というような趣旨の挨拶をして「カンぺイ(乾杯)」だった。目的達成の最初のチャンスには恵まれたのだが、結論は遠い話となってしまった。
Date: 2015/11/04


揚州市洗いざらい(9)
     揚州市洗いざらい(9)
揚州市は南京から北へ120qだが当時のバスでは、休憩時間を含めると、3時間近くかかった。今では見られないが、バスを道路に止めて南京大橋を見るのは定番であった。当時のソ連の高い技術で鉄道と自動車道路を2階建てに作った自慢の鉄橋だった。南京大橋の見学は、完成を待たずに中ソ関係が悪化、中国が自力で仕上げたと言う自慢話をするのが目的である。揚子江の幅の狭いところを選んで橋を架けたとはいえ1,5q〜2kmはある。南京市の見学スポットのひとつであった。
さて、揚州市への道のりは砂利道を揺られて走るから、正直言って疲れる。バスからの風景は老若男女が人海作戦で行う農作業。今では「開発区」といわれ、多くの外資が投入されて、農業に従事する人民の姿を見ることは出来ない。大型ス―パ―マーケット(中国語では「超市」と訳す)も大学のキャンパス・博物館・スタジアムのような公共施設の新設もこの開発区以南に集中している。当時は田植えのシーズンで、その農民の活動拠点を過ぎるといきなり市街地が広がるという揚州市の第一印象を忘れていない。大都市へ行ってもホテル不足で、西園賓館というのが揚州市唯一の外国人が宿泊できるホテルであった。リニューアルされて今でもこのホテルは活発に営業されていて、最近でも新しいホテルが満室でこのホテルに宿泊させられることがあるがやはり懐かしい。外事弁公室の顧 燕さんという40歳代の日本語の堪能な人に迎えられてホテルに収まる。揚州滞在中の予定を説明されたが、揚州市の要人に会える予定は特にない。私には大事な使命がある。桜内義雄自民党幹事長が毛筆で書いてくれた「友好都市締結を要請する」親書を渡す、そして友好都市締結へ向けての要望をしなければならない。私はこの時を逃してはならないと、思い切って「市政府幹部にお会いできませんか。」と言って責任ある要人に面会を求めた。
「連絡をしておきます。」という返事に「揚州滞在は今日と明日です。」と、要人の面会時間を必ず取ってくれるように強く要請した。強く要請しても誠意は返ってこなかった。冷たい国柄が見えたようで不安感が走った。


Date: 2015/11/04


揚州市洗いざらい(8)
     揚州市洗いざらい(8)
激しい市長選挙で議会は一つにはなれなく、訪中団に参加したのは足立原派だけで、(佐藤徳次郎・原田茂・山口典紀・村井正光・大野 晃・石井茂・石塚敞・柏木功・堀江則之・徳間和男・鈴木一弘・庄司浩・斉藤敏夫)13人だった。7人以上の民間人の協力を頂かなくてはならない。そこで、商工会議所等の関係団体の賛同者を得るべく、多くの方々に中国行きの御願いをした。その結果理解ある人たちの協力が得られて、訪中団(23人)の結成は無事に終了した。昭和55年5月9日、足立原市長に見送られての出発は私にとっては、夢のようだった(民間人・事務局の協力者―酒川茂・岸勝正・大岩真・雨宮八重子・高橋徹也・四竈秀郎・増田弘・萩原公世・青梅謙治さん達)。成田〜上海〜南京〜揚州〜北京の11日間の思い出深い旅の始まりであった。大陸を走る列車の中の雰囲気は違う。軟席指定者には違いないが、のんびりしていて、大型の湯飲み茶わんの中にお茶の葉を適量いれる、その上から熱湯を注いでふたをすると女性工作員は次の人にも同じやり方で「お茶のサービス」を続けて行く。湯のみのふたを取って見ると茶の葉は浮かんでいる。時間が経つと茶の葉は沈んで飲みやすくなるのだが飲んでみると茶の葉は口の中に残って違和感を覚える。5時間の南京までの長旅では窓の外を見ているしかない。そして大陸の果てしない農地の広がりに圧倒されているしかない。突然、列車の中が賑やかになる。物売りが入ってきていかにも中国製の土産が次々に披露されるが、粗悪品とは判断できるが、魅力のある中国製品とは思われない。「千円で三つとか4つ」とか誘っているが手を出す者は一人もいない。掛軸・スカーフ・扇子・小物のおもちゃなど・・・・・。入れ替わり立ち替わり車内を巡ってあかるい振る舞いをしてゆく。
お茶をのんで野外の自然を見ていても、退屈を拭う事は出来ない。南京に着くと揚州市のバスが待っていて、揚州市のガイドがリードするバス旅行となり、雰囲気は変わった。


Date: 2015/11/02


揚州市洗いざらい(6)
     揚州市洗いざらい(6)
約2週間の旅は終わって、6カ月後の1972年10月に感動的な田中角栄・周恩来両首相による日中関係の改善・正常化が実現した。このころから日中両国に「都市友好交流活動ブーム」が始まって、友好都市の締結を結ぶ都市が増えて行く。県下では藤沢市と昆明市、相模原市と無錫市(揚州市と同じ江蘇州・1985年)、横浜市と上海市等である。私が揚州市との友好関係づくりにどう動くかについて構想を練り始めたのは、1978年(昭和53年)に入ってからである。1978年に入ると翌年(79年)に行われる市長選挙で時間に追われる毎日が続いた。6選を目指す石井忠重氏と新人の足立原茂徳氏の一戦で史上、最も激しかったと言われる選挙である。私は、足立原陣営の政策創りを担当する事になった。政策には足立原氏は「教育・文化色」を出すことを望んでいた。数多くの公約を検討して策定整理には時間がかかったが、私には、公約に「中国の都市との友好による、青少年交流」公約に入れ込む立場にあった。当然、足立原茂徳氏と政策担当分野の数人の了解を得て「中国の都市との友好交流事業する」ことを公約に加えることが出来た。激しい選挙戦を制して足立原市長誕生となった(私が足立原陣営に入ることになったことには理由があるのだが、この件については別項目で具体的に明らかにする―私の著書の一部で公表済みではあるが)。私は河野洋平新自由クラブ訪中団を思い起こし、新鮮な決断をした。1980年私は厚木市議会の議長に選出され、訪中団を実行できる立場に恵まれたのである。恵まれはしたもの、足立原・石井激しい選挙のしこりは残って議員は真二つに分かれ、「満場一致での訪中団」は不可能であった。当時は中国の訪問団を扱える旅行会社は4社に限られていて、旅行を依頼した業者には20人を超えないとビザがとれないという条件をつけられた。足立原市長派に属し訪中団派遣に賛成者の数ではビザの申請が出来なかったのだ。そこで苦難の末、民間人を誘うと言う私事旅行としての厚木市初めての「厚木市議会等日中友好訪中団」(団長・徳間和男議長)となったのである。


Date: 2015/10/30


揚州市洗いざらい(7)
     揚州市洗いざらい(7)
1980年の「歴史的な訪中団」は、「河野洋平先生がバックであると言う」私が一人持っていた「自信」が進めたようなもので、厚木市と揚州市との関係には歴史的なものは何もなければ、両市を特徴(静岡市と杭州市はお茶の産地同士という強い関係がある・唐津市は鑑真和上の上陸した港という歴史的事実がある。)づけるものも何もない。縁もゆかりない家に飛び込んで「あしたから、親戚になってくれ」という事と変わらない。ただ大きく変わったのは日中関係の歴史的な改善があって、隣国との関係に新しい今までになかった「一衣帯水」の認識が改まって、新しい時代の到来を国民が全体で感じたことが意識の変化ではあった。
「飛び込みで、友好都市成立求めて」訪問する事を冒険的ととらえるか、不幸であった隣人関係を「新しい友好の輪に包みこもうとする日本人の尊い努力」と解してもらえるかという不安と、私たちには、にわかに理解できない中国の国情を解こうと、広い角度から学んだ。学んでも理解する事は出来ないと知って河野洋平元衆議院議長に頼ることを決めた。そして、この河野先生に北京政府、江蘇省の省都・南京市政府、揚州市政府への「河野先生の紹介状をもって、訪問したい」と言うお願いをした。河野先生は私の個人的な陳情にもかかわらず、慎重に、大切に扱ってくださって「中国の北京政府にも通用する人物(当時の自由民主党幹事長・桜内義雄)の紹介状を準備しましょう」という扱いをして下さった。このことが、1984年10月22日のめでたい日を迎える「種子の日」となるのである。
Date: 2015/10/29


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